あれから40

 

             地域密着型ソーシャルワーカー 明楽 誠

 

 久しぶりに花田さんから電話があり、懐かしさもあり、ついつい原稿を引き受けました。私が前原さんの後任として岡山の自治体問題研究所に勤務したのは24歳の時で、わずか1年で退職したので、ほとんど何の役にも立ちませんでした。しかし、県内の自治体を回り全国集会にも参加して、地方自治に関する見識を深める機会を与えていただいたことは、その後の私の活動にとって財産になったように思います。

 研究所を辞めた私は、自宅で父親の介護をしながら中学生や高校生の塾を開き、両親が亡くなってからは原野先生からの依頼により岡山部落問題研究所で「部落問題」(後の「おかやま人権センター」発行の「人権21」)の編集に従事するようになりました。編集といってもその業務は広く、雑誌や書籍の編集や研究活動だけではなく、クオーク・エクスプレスという編集ソフトを使い版下までを自前で作成していました。今の「人権21」のデザインも私が作ったものが使用されています。岡山部落問題研究所(後の「おかやま人権センター」も含め)には20年ほど勤めました。

 また、その間には、岩間先生からの勧めがあり岡山大学大学院文化科学研究科にも在籍して、「新島襄の思想史的研究」というテーマで学位論文を書きました。また、卒業後には岡山が生んだ融和運動家である三好伊平次の思想史研究も行いました。

 しかし、いま振り返ってみると、私の場合は、特定の分野の学問を学びたいとか職業に就きたいという希望や意思はなく、その時々の流れに身を任せて漂っていたようにも思います。とはいえ、そこに何の考えも無かったわけではありません。最近、吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」が再び流行っていますが、私は中学生時代にこの本と出会い、以後私の行動指針となりました。いろいろな状況下において、またいろんなお誘いを受けながら、時には周囲に反対されることもありましたが、常に自分で考え判断してきました。さらに、新島の平民主義や自治論、三好の融和精神を学んだことも、その後の私の行動に大きな影響を与えていると思います。

 

 自治体問題研究と一番関わりがありそうなのは、あの平成大合併の嵐の中で私が取った行動だと思います。平成14年、私が住んでいる久米南町でも合併問題が発生しました。平成14年の秋には、すでに町民アンケートも実施した上で、議会も建部町との合併を推進することを決議し、具体的な合併に向けた動きが現れてきました。しかし、私には、大合併の波に久米南町も呑まれてしまってもいいものなのか、という思いが募ってきて、町長とも何度も面談し、当時12名いた議員のうち8名の自宅を個別に訪問して面談し、それぞれの考えを確かめました。すると面談したほとんどの方が「できることなら合併はしたくないが、時代の流れだから仕方ない」と言われました。

 私が訴えたのは、昭和29年の町村合併によって出来た久米南町は、半世紀の歳月を経てようやく地区ごとのわだかまりを乗り越え、町民としての一体感が育ってきたのであり、自治には「ちょうどいいサイズがある」ということでした。現憲法の下で初めて地域住民に地方自治の権利が与えられ、その権利をようやく我が物として楽しむ時代になった現段階で、再び広域合併を行うことは、地域住民の自治意識を削ぐことになるから、くれぐれも慎重に判断して欲しいと伝えました。

 しかし、町長も議会もいったん決議したものを撤回することは難しい状況にあったため、平成15年には、私は町内の有志を集めて「久米南町合併問題研究会」を組織して勉強会を開催し、新聞紙にチラシを入れて町民に問題を喚起し、町執行部や議員も参加した集会も開催しました。その後、久米南町は建部町との合併を断念し、また久米郡での合併も断念して、現在、岡山県地図の真ん中に小さな自治体として存続しています。町執行部のこれらの判断と私の取った行動にどのような関係があったのかは分かりませんが、町長らが公言できなかったことを、私が代弁したということはあったのだと思います。

 

 平成21年には社会福祉士の資格をとり、地元で地域密着型のソーシャルワーカー事務所(みょうらく事務所)を開設しました。20年ほど雑誌の編集を主な仕事としてきた私は、合併問題に関与したことや、以前から町内の生活困難家庭の支援活動も始めていたこともあり、これからは久米南町内で町民に役立つ仕事がしたくなりました。また、翌年には、自宅の一部を改造して、定員8名の小さなデイサービスも開設しました。そして現在は介護難民救済を主な目的として、年中無休でデイを開き、夜は、我が家に要介護2から4まで5名の高齢者がナイトステイしており、デイ部分には2名の宿泊者がいて、さらに毎日デイに通ってくるお年寄りもいて、毎日まいにち8名の高齢者に3食提供し、生活介助などの介護保険外サービスの提供も行っています。これらのサービスは、個人が負担すべき消耗品等を除いて、1ヶ月の利用者負担金を6万円までとし、国民年金だけしかない方でも安心して利用できるようなシステムにしています。

 また、町内にも判断能力が不十分で、しかも近くに親族の支援者がいない事例も増えてきており、施設や役場から要請があれば後見人等も引き受けています。

 いまの私の職業は、介護保険法で言えば通所介護事業所の管理者ですが、民法で言えば後見人・保佐人・補助人であり、介護保険外サービスで言えば、朝夕は毎日、昼は週3回程度、8人分の食事を作る調理員であり、夜間の介助や受診支援などでは、家族の代役としての生活支援者といったところです。

 

 現在64歳になりましたが、まだ10年位は働かなくてはならないようです。あれから40年、振り返れば、自治体行政にコミットするような活動は行っていませんが、自治体内に生起する、権利や自治に関わる問題には、多元的な視点から関わって来たと思います。 

 つい最近取り組んだのは、CRE(カルバペネム耐性腸内細菌科細菌)という腸内耐性菌を保有する人の権利擁護問題です。ある高齢者が入院中にCREに感染し、病院での治療は終わっても、CRE感染を理由に施設入所やショートステイ利用を断られてしまいました。厚労省はこれら耐性菌保菌者の「人権を配慮」して、介護サービスの利用を拒んではならないと感染対策マニュアルも出しています。しかし、昨年、NHKのクローズアップ現代で「悪魔」の耐性菌と紹介されCREの怖さが広まったこともあり、介護現場では感染を警戒した過剰反応も生まれています。私が経営する小さなデイでも職員から受け入れに反対する意見も出され、CRE保菌者の受け入れを決めたとき、1名の職員が退職してしまいました(その後、新たに1名を採用)。CREはノロウイルスとは異なり感染力が弱いため「一般的な標準予防措置策」で十分な予防が可能とされていますが、それでも、もし感染したらという不安が広がっています。

 情緒的不安を払拭するのにも時間は必要ですが、大きな施設になると、全ての職員に「一般的な標準予防措置策」を指示しても、深夜、1人や2人で20人や30人もの高齢者を介護している現場では、何が起きても不思議ではないという現状があり、施設管理者は理想と現実の狭間で悩んでいるのも事実です。

 私は、自分のことを地域密着型のソーシャルワーカーだと言っていますが、いままでに誰からもそう呼ばれたことは一度もありません。しかし、これからも地域内に生起する人権や自治に関わる問題に、可能な限り主体的に関わっていきたいと考えています。

 

この原稿は、自治体研究社発行の「住民と自治」通巻660号、2018.4発行の付録 岡山版No.261号に寄稿したものを、転載の許可を得て掲載しています。