平成29年4月20日 久米南町退職教職員の会 平成29年度総会(久米南町中央公民館)にて

 

認知症の人との接し方

                 

                       (デイサービスちえ)明楽 誠

目次

1 私の父が認知症に

2 父:明楽樟次のファミリー・ヒストリーと心の傷

3 ソーシャルワーク

4 認知症の人とは

5 認知症の人との接し方

 

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1 私の父が認知症に

 

父は59歳ころ(私は14歳)、高松農業高等学校へ勤務していましたが、酒に酔い道路に寝ていて自動車にひかれ頭部を強打。何ヶ月か入院。その後退院したが、認知症を発症し、以後は在宅で生活し88歳で亡くなった。

妻は中学校の教員だったが、私が中学生の頃から肝硬変で入退院の繰り返していた。父は、退院後はちょうど長女の夫が長野に転勤になり長野郊外に自宅を新築したので、姉夫妻が父を引き取り面倒を見た。徘徊して行方不明になり随分苦労したようだ。

私が24歳で結婚して誕生寺に住むようになってから、父は長野から戻って来た。

父は、交通事故の原因もそうであったが、以前から酒に溺れ、酒乱の傾向があったが、長野から戻ってきた父には、徘徊の他にも、失禁、取られ妄想、石鹸を食べる、魔法瓶をガスコンロで沸かす等の、認知症に特徴的な症状が出ていた。

 

だが、今、当時を思い起こしてみても、父と私達夫婦が、父の異常行動を巡って口論などした記憶はない。日中、父を一人にすると自転車の乗って弓削の光井酒店などで酒を飲み、弓削高校の中庭や国道脇で寝そべるとこがあり、私が自動車で迎えに行った。特に、かつて父親の勤務校であった弓削高の中庭に、父を引き取りに行くのは、かなり<恥ずかしい>思いがした。

しかし、その後、私が自宅で中学生や高校生の学習塾を開くようになってからは、毎日、「一日分のウイスキーはこれだけ」と言って、細かく飲酒量を管理するようになると、酒を求めて放浪=徘徊はしなくなった。

孫ができると、孫達に「じいじ、じいじ」と呼ばれ、家の中に父の便が転んでいても、おもしろがって孫たちがそれを片付けたこともあった。晩年の父は穏やかな在宅生活を送り、88歳で亡くなった。

 

 

2 父:明楽樟次のファミリー・ヒストリーと心の傷

 

実は、私は、父の異常な行動には、幼少期から慣れっこになっていた。父は、酒が入ると毎回のように、満州に渡り酒を飲みながら高等文官試験に合格したので、みんなが「びっくり科長」と言っていたと、自慢げに繰り返し喋っていた。普段の父の性格は温厚で、「中庸」・「普通」・「無」を重んじる人=ジェントルマン。しかし、一旦お酒が入ると高等文官試験合格の話になり、次第に不機嫌が増し、母を怒鳴りつけ、手のつけられない虎になる。母と私は母の実家に逃げたり、藁ぐろの後ろに隠れたりして、虎が寝入るのを待った。

母親は大学卒業後、京都市役所に勤務。結婚して東京へ、昭和16年に長女が生まれる。20年母と子は誕生寺に疎開。しかし、母によると前夫は酒癖が悪く、その後離婚。だから母は酒癖の悪い人は大嫌いだった。おそらく、母親の父に対する嫌悪感が、父の酔狂を苛烈化していたのだろう。母は、私に「離婚したい」と何度も口にしていた。

 

しかし、父親の酔狂の背景には、私にはもちろん、父の実の娘4人にも語らなかった「心の傷」が潜んでいたように思われる。今、私の手元に残されている父の履歴書を見ると、昭和5年4月、早稲田大学高等師範国語漢文科卒業。昭和11年2月から満州に渡り、日本赤十字社新京支部部員、小学校教員を経て、昭和13年9月から奉天市、東安省、通化省民生庁の職員となり、昭和16年5月には満州国高等文官試験行政科に合格して、通化省揖安(いあん)県事務官 庶務科長、18年には吉林省[通]化県事務官 開拓科長、昭和20年4月 黒河(こくが)省事務官を務めたとある。しかし、その父も昭和20年5月に北安第686部隊へ召集され、昭和22年4月に日本へ帰還。

 

これは履歴書だから、記されていないのは当然だけれども、実は昭和20年5月の徴兵から昭和22年4月の日本帰還の間に、父の人生の歯車を狂わせた出来事が伏在している。

父は大学生のとき結婚して長女が生まれ、満州ではさらに3人の娘が生まれた。昭和20年5月、父が召集されると、妻と4人の娘達は、運良く全員が日本に戻った。しかし、父は捕虜となりシベリアへ送られた。極寒のシベリアでの捕虜生活を耐え抜く父にとって、妻や4人の娘たちとの再会こそが生きる望みであったに違いない。そして昭和22年4月に日本へ帰還。ところが、妻はすでに夫は「死亡したもの」と思い再婚していた。それを知った父の悲しみは、私にはとうてい想像が及ばないほど深いものであったに違いない。戸籍を見ると、4人の娘の親権問題は、昭和41年頃になり決着したようだ。

 

父は帰国後、昭和22年7月から吉備郡福谷小学校教諭→昭和25年3月 久米郡吉岡中学校教諭→昭和26年4月 弓削高等学校教諭、となり、昭和28年10月 弓削中学校に勤務していた福田智恵子と再婚。12月に長男誠(私)が誕生。

 

子どものころ、私はこのような父の歴史は知らなかったし、興味もなかった。しかし、虎になった父をなだめるのも、飲み屋で酔っぱらった父を、手を引いて家に連れて帰るのも私の仕事だった。小学生のころ、誕生寺駅前に「つかうね」という飲み屋があって、そこでへべれけになった父を、母は私に迎えに行かせた。失禁してズボンを汚した父を近所の人が見ている。私は、みんなに見られて恥ずかしいという気持ちを懐きながら父の手を引いたことを、いまでもよく覚えている。

 

このような家庭環境が、いま振り返ってみると、私にとってはある意味「実物教育」であり、現在の仕事であるソーシャルワークの援助技術論にも通じるような対人関係を身に着けさせて行ったようにも思う。

今にして思えば、認知症になった父は、だた認知機能が低下した人ではなくて、同時に、家族にも語らな立った<心の痛み>を背負いながら生きる<常識の人>でもあったのだ。

 

3 ソーシャルワーク

 

父も母も亡くなった後、私は昭和64年4月から人権問題を扱う雑誌の編集を20年ほど手伝った。その間に、岡大に新たに設置された文化系の大学院博士課程にも籍をおいて、「備作平民会」を設立して、生涯を融和運動に捧げた三好伊平次や、幕末にアメリカに密航して、帰国後はキリスト教主義の「平民主義」を唱え同志社大学を設立しようとした新島襄の研究も行った。

 

この三好と新島に感化されたためか、平成12年頃から、久米南町内で、地域内に発生する様々な社会問題に関わるようになった。(ゴルフ場建設、町村合併、檀家問題、知的障害・精神障害・身体障害の人の相談や援助、いじめ問題や不登校、家庭内暴力に悩む人々の支援など)

 

中でも特にA家との出会いが、私を専門職としてのソーシャルワークに向かわせていったように思う。

A家は母子家庭。母親は障害児を産んだだめに離縁され、以後、母が2人の子供を育ててきた。しかし、その母親と二男は、共に「境界領域」(障害者として認定されていない)の「知的」障害者。二人はゴミ屋敷に住み、母は糖尿病が悪化して尿臭がきつく、二男は金がなくなり消費者金融に借金を作り自暴自棄となり、母子は、すでに施設入所している長男の障害者年金を頼りに生活していた。この親子が、ある日、私に助けを求めてきて、まもなく近所の民生委員も相談に来られた。

 

当時、町内でこの家族の救済に立ち上がる者はなく、結局、私や私の家族が引き受けることとなった。A家の問題解決には、ゴミ屋敷の大掃除、糖尿病の食事管理や清潔維持のためのヘルパー利用の契約、生活保護の申請、二男の借金処理のための特定調停、成年後見制度を利用した財産管理、就労支援、長男の年金管理を長男に戻すため長男にも成年後見制度の利用などが必要となり、これらの支援をボランティアで引き受けた。そして、平成21年には私自身が社会福祉士の資格を取り、地域密着型の権利擁護のための「みょうらく事務所」を開設し、翌年には、自宅の一部を提供して小さなデイサービスも開設し、今日に至っている。「みょうらく事務所」で現在お世話をしている人の半数は認知症の方であり、デイサービスの利用者は現在10名で、認知症の症状がある人は7名、内4名は、デイの施設内、または隣接する我が家で宿泊している。(デイサービスちえは宿泊可能。常時3名が宿泊、我が家にも3名が宿泊している)

 

4 認知症の人とは

 

ネットを検索すると、「認知症とは、いろいろな原因で脳の細胞が死んでしまったり、働きが悪くなったりしたためにさまざまな障害が起こり、生活するうえで支障が出ている状態のこと」という説明がある。しかし、このような説明の「いろいろな原因」には、先天的な知的障害や未成年期に発症する精神疾患の患者も含ませることもできる。

 

また、民法の第7条には「精神上の障害により事理を弁識する能力を欠く常況にある者」の規定があり、第11条には「精神上の障害により事理を弁識する能力が著しく不十分である者」の規定が、第15条には「精神上の障害により事理を弁識する能力が不十分である者」の規定があり、事理弁識能力の程度に応じて「後見」「保佐」「補助」の申立ができることになっている。

民法的な規定から言えば、「未成年後見」も含めれば、なんらかの理由で「事理弁識能力」が不十分で、大事な物事の判断に援助が必要な人は、日本中に何千万人もいるとも言える。実は、これらの民法における成年後見等に関する規定は、平成12年の介護保険法施行に合わせて改正された。なぜなら、介護保険制度では、本人とサービス提供者が対等な「契約」によってサービスが開始されることになっているから。

また、介護保険制度では、65歳以上になると知的障害者や精神障害者も、介護保険サービスを優先することになっている。実際に、介護保険の利用の際に認定調査員は、「長谷川式簡易知能評価スケール(HDS-R)」を使って認知症の検査を行っているが、これはご存知のように簡易な知能検査です。だから、介護保険法の運用においても、実際には知的障害者も認知症の人に含まれている。(しかし、精神障害の人や「境界領域」の知的障害者の場合は、長谷川式では高得点を取って、なかなか十分な介護サービスが受けにくい現実もある)

 

しかし、狭い意味の認知症の発症は、社会的(医学的見識ではありません)に見ると、成人として十分な「事理弁識能力」を維持して生活していた人が、ある日を境に、脳萎縮、脳血管性障害、部分的な脳機能の低下などが原因となり、徐々に、あるいは突然に、それまであったはずの能力を失い始めて行く状態のことを指していると、説明しても良いと思います。

 

この狭い意味の認知症の場合、まず、なんらかの脳の認知機能の障害が発生していますが、本人自身の意識や心情に焦点を当ててみると、能力を失っていく本人の<不安>があり、そのことを受け入れられない本人や家族の<動揺><焦り>があり、さらに、家族の動揺・焦り・不満・怒りなどが、さらに本人の<不安>を煽る場合がある。

 

医学的には、認知症の「症状」は、認知機能の障害によって生じる「中核症状」と、この「中核症状」を背景として、本人の性格や生活環境、心身の状態、周囲の者による不適切な対応によって生じる「心理的症状」(「周辺症状」)の2種類がある言われます。「中核症状」としては<記憶障害、見当識障害、理解力・判断力の低下など>があり、「心理的症状」には、<不安、焦燥、うつ状態、幻覚・妄想、徘徊、興奮、暴力、異常行動など>があるとされます。

 

認知症も早期発見、早期治療が大切と言われており、すでに久米南町の保健福祉課と精神科の専門病院とが連携した取り組みが行われています。しかし、認知症の人を社会的に見ると、その中には治療が不要な人や治療効果がほとんど期待できない人も、たくさん含まれていることにも注意を払う必要があります。

 

5 認知症の人との接し方

 

日々、認知症の人を施設や在宅でケア(お世話)している介護職員や相談員などの専門職は、「パーソン・センタード・ケア」や「バイスティックの7原則」という言葉を、大学や専門学校で必ず習います。また、これらの言葉は、「試験に出てくる」語彙として学生には有名です。

 

「パーソン・センタード・ケア」は、イギリスの心理学者トム・キッドウッド が、1980年代から提唱している言葉です。認知症のケアは、介護者中心から本人中心へと発想を転換すべきだと言い、いまでは学説の主流となっていると言われている。実際に、平成12(2000)年から施行された日本の介護保険制度や新しい成年後見制度の根底にも、本人意思の尊重や自己決定権などの新しい人権や介護の思想が据えられています。

 

では、本人を中心に据えた認知症ケアを行うためには、援助者は本人とどのように接することが必要なのか?

 

その答案も、専門職はよく知っていて、その代表的な方法論が「バイスティックの7原則」です。アメリカのケースワーカーで社会福祉学者のフェリックス・P・バイステックが1957年に著書『ケースワークの原則』の中で、本人と援助者の間に信頼関係を構築するためには、

①個別化 (individualization)

②受容 (acceptance)

③意図的な(本人のあるがままの)感情表出 (purposeful expression of feeling)

④(支援者の)統制された情緒的関与(や共感) (controlled emotional involvement)

⑤非審判的態度 (nonjudgmental attitude)

⑥利用者の自己決定 (client self-determination)

⑦秘密保持 (confidentiality)

が大切だと言います。

 

しかし、これら「7原則」も、学校における生徒指導に関わる援助技術論として読み替えれば、ある意味、教師にとっても当然の倫理・行動規範とも言えます。ただし、おそらく、教育現場でも介護の現場でも医療の現場でも、あらゆる児童生徒(場合によっては保護者も)や、あらゆる認知症の人を対象として、的確な情報を引き出し、有効適切な援助を行うことは、大変難しいことです。

 

大胆に言えば、大抵の場合、引き出した情報は不正確であったり、部分的であったり、歪められている場合もあり、行うケアや支援の内容が適切ではない場合も多いものです。だから、本人中心の相談とケアは、日々の生活の中で、<トライ アンド エラー>で、何度も繰り返される必要があります。

そろそろ、本日のお話のまとめに進みます。

 

では、家族や隣人として、介護や医療の専門職でもない地域住民が「認知症の人」とどのように接したらよいのか。

 

簡潔な答案を書くとすれば、

《認知症の人の人生に<敬意>を抱きつつ、<あるがままの現状を受け入れ>、何よりも本人の<不安>を和らげることが最も重要であり、<信頼関係の構築>によって、<その人の望む幸せ>を実現すること》

このように書けば、花マルが貰えるでしょう。

 

しかし、支援者が本人に対して、「心から人の人生に<敬意>を払うこと」を100点、「<あるがままの現状を受け入れ>ることが出来た状態」を100点と見なした場合、なかなか60点(合格点)以上もの「関わり方」をするのは非常に難しい。案外、認知症の人は、周囲の支援者を鋭く観察していて、厳しく評価しています。たとえ家族であっても、私の父の事例のように知らないことも多いものです。

 

目の前に「認知症」らしき人が現れれば、<笑顔>で挨拶して、いくらか世間話でもしてみる。また、次の機会にも同じように<笑顔>で挨拶して、いくらか世間話でもしてみる。そうした飾らない普段通りの関わりを通じて、相手の<不安>がいくらか和らぎ、<笑顔>で応えてくれるようになるかもしれません。認知症の人との関わりは、5点や10点レベルでいいと思います。5点や10点の少しだけの関わりの積み重ねによって、やがて60点以上の評価をご本人から頂ける時が来るかも知れません。

 

今後、日本国中に認知症の人は、ますます増加していくと言われています。しかし、現在の多くの介護施設や病院では、認知症の方の<笑顔>が消えつつあるように思います。忙しすぎて「バイスティックの7原則」や「パーソン・センタード・ケア」どころではないというのが現場の実態のようです。しかも、ご承知のように政府の介護政策も、施設や病院から在宅へという大きな流れの中にあります。いま、施設や病院に入れない認知症の人もどんどん増えています。その受け皿づくりを久米南町も進めているところです。

 

 

久米南町内に在住されている退職教職員の方々は、これから私達が、久米南の地域の中に認知症の人が<安心>して<幸せ>に暮らせる関係性や居場所を、新たに作り上げていく上で、大変貴重な人材なのだと私は思っています。